なぜ事業承継でITの棚卸しが必要なのか
従業員10〜100名ほどの会社では、ITの管理を社長自身が担ってきたケースが少なくありません。創業期にホームページを作ったのも、会計ソフトをクラウドに切り替えたのも社長、業者とのやり取りも社長の携帯電話とメールアドレス。社内に情報システム担当者がいないため、「何がどこにあるか」は社長の頭の中にしかない、という状態です。
この状態のまま社長が退任したり、急な病気で業務から離れたりすると、次のようなことが起こり得ます。
- ドメイン(会社のホームページやメールアドレスの「〇〇.co.jp」部分)の更新案内が社長の個人メールに届いていて、誰も気づかないまま期限切れになる
- クラウドサービスのログインに、社長個人のスマートフォンでの認証(二段階認証)が必要で、誰もログインできない
- 社長個人のクレジットカードで支払っていたサービスが、カード解約と同時に止まる
- 社長が自分で作った見積用のExcelを誰も直せず、価格改定に対応できない
どれも一つひとつは小さな話ですが、メールやホームページ、会計といった業務の土台に関わるため、止まったときの影響は大きくなります。また、現社長が元気なうちであれば「これは何のサービス?」と聞けば数秒で答えが出ますが、退任後や不在時には、調べるだけで何週間もかかることがあります。
ITの棚卸しは「システムに詳しい人がやる作業」ではなく、現社長の記憶を、会社の記録に移す作業です。専門知識よりも、現社長が時間を取って一緒に確認することのほうが重要です。
社長しか知らないアカウントとパスワードを洗い出す
最初に取りかかりたいのが、アカウント(ログインのためのIDとパスワード)の洗い出しです。社長がふだん何気なくログインしているサービスを、一つずつ書き出していきます。
書き出す対象の例
- 会社のメール(Microsoft 365、Google Workspace、レンタルサーバー付属のメールなど)の管理者アカウント
- クラウド会計・給与計算・勤怠管理などの管理者アカウント
- ホームページの更新画面(WordPressなど)、ドメインやサーバーの管理画面
- 社内のファイルサーバーやNAS(ネットワーク上のファイル保管装置)、ルーターの管理者パスワード
- 取引先の受発注サイト、業界団体のポータル、行政への電子申請に使うアカウント
- 会社のSNSアカウント、Googleビジネスプロフィール(地図検索に表示される会社情報)
思い出すきっかけとしては、社長のパソコンのブラウザに保存されたパスワードの一覧、メールの受信箱で「ご利用明細」「更新のお知らせ」「ログイン通知」などを検索した結果、クレジットカードや口座の引き落とし明細が役に立ちます。
パスワードの扱い方に注意する
洗い出したパスワードを一枚の紙やExcelファイルにまとめて共有フォルダに置くのは、かえって危険です。後継者や管理担当者が自分のアカウントを持てるサービスは個人ごとの管理者アカウントを追加するのが基本で、どうしても共有が必要なものは、パスワード管理ツールなどアクセスできる人を限定できる方法で保管します。
最近のサービスの多くは、パスワードに加えて、登録したスマートフォンへのコードやアプリでの承認を求めます。この登録先が社長個人のスマートフォンや電話番号になっていると、パスワードが分かってもログインできません。認証の登録先を会社管理の端末に変える、または後継者の端末を追加するなど、パスワードとセットで認証方法も引き継ぐことが必要です。
契約の「名義」を確認する(ドメイン・サーバー・クラウド)
次に確認したいのが、各サービスの契約が「誰の名義」になっているかです。中小企業では、創業時に社長個人の名前で契約し、そのまま法人として使い続けているケースがよく見られます。
特に影響が大きいのはドメインとサーバー
ドメインには「登録者(所有者)」の情報があり、これが社長個人や、ホームページを作った制作会社の名義になっていることがあります。登録者が会社でない場合、名義変更に相手の協力が必要になったり、更新や移管の手続きが進められなかったりします。メールアドレスもこのドメインに乗っているため、失うと取引先とのやり取りに直接影響します。
レンタルサーバーやクラウドサービスも同様に、契約者情報・連絡先メールアドレス・支払い方法の3点を確認しておきます。
| 確認項目 | よくある状態 | 望ましい状態 |
|---|---|---|
| 契約者(名義) | 社長個人名、制作会社名 | 法人名 |
| 連絡先メール | 社長の個人アドレス、携帯キャリアのメール | 会社の共通アドレス(複数人が受信できるもの) |
| 支払い方法 | 社長個人のクレジットカード | 法人カードまたは口座振替・請求書払い |
| 更新期限 | 誰も把握していない | 一覧表に記載し、更新月が分かる |
代表者名義のクラウドサービスや証明書
クラウドストレージ、ビデオ会議、ネット通販の法人アカウントなどが、社長個人のアカウントで契約されていることもあります。個人アカウントのまま業務データが保存されていると、退任時にデータをどう移すかが問題になります。法人契約への切り替えができるか、できない場合はデータをどこに移すかを決めておきます。
また、法人の電子申請に使う電子証明書など、代表者個人に紐づく仕組みは、代表者が変わると取り直しや登録変更が必要になる場合があります。社長交代の日程が決まったら、どの手続きが必要かを事前に確認しておくと慌てずに済みます。
ネットバンキングや金融機関関連の手続き、登記を伴う変更は、それぞれの金融機関や専門家の案内に従ってください。ITの棚卸しでは「どのサービスに代表者個人の情報が登録されているか」を一覧にするところまでを目標にすると、範囲がはっきりします。
ライセンスと保守契約を一覧にする
アカウントと名義の次は、お金を払って使っているソフトウェアと、外部の会社に任せている保守の契約を整理します。
ライセンス(ソフトウェアの利用権)
パソコンのOfficeソフト、CAD、会計ソフト、販売管理ソフトなど、会社で使っているソフトウェアには利用条件があります。買い切り型か月額・年額の契約型か、何台・何人分の契約か、どのアカウントに紐づいているかを確認します。社長個人のアカウントで購入したライセンスを会社のパソコンで使っている場合は、利用条件に合っているかも併せて確認が必要です。
あわせて、使っている製品のサポート期限も見ておきましょう。たとえばOffice 2016/2019は2025年10月14日にサポートが終了しています。古い製品が残っていると、承継後すぐに入れ替え費用が発生することになるため、後継者が事前に把握しておく意味は大きいです。最新の期限はMicrosoftの公式ライフサイクルページで確認してください。
保守契約・業者との取り決め
販売管理システムや生産管理システムを地元の業者に作ってもらい、「何かあったら社長がその業者の担当者に電話する」という関係で回っている会社は多くあります。この関係が社長個人の人脈に依存している場合、社長が退くと連絡先すら分からなくなります。
契約書や発注書、毎月・毎年の請求書を探し、次の点を一覧にしておきます。
- 業者名、担当者名、連絡先
- 保守の範囲(何をしてくれて、何は別料金か)と費用、更新時期
- 契約書があるか、口約束だけか
- 担当者が高齢・一人体制などで、今後も続けてもらえるかに不安がないか
- メール・会計・給与・勤怠などの管理者アカウントを一覧にした
- 各アカウントの二段階認証の登録先(スマホ・電話番号)を確認した
- 後継者または管理担当者を、管理者として追加した
- ドメインの登録者名義と更新期限を確認した
- レンタルサーバー・クラウドサービスの契約者、連絡先メール、支払い方法を確認した
- 社長個人のクレジットカードで払っているサービスを洗い出した
- 代表者個人に紐づく電子証明書や登録情報を一覧にした
- ソフトウェアのライセンスの種類・数量・紐づくアカウントを確認した
- サポート期限が近い・切れている製品がないか確認した
- システム保守業者の連絡先、契約内容、更新時期を一覧にした
- 社長しか使っていない・直せないExcelや仕組みを洗い出した
- 社内ネットワーク機器(ルーター、NAS等)の管理者情報を確認した
社長しか使っていないExcelや仕組みを見える化する
意外と見落とされるのが、社長が自分で作り、自分だけが使っているExcelファイルです。たとえば次のようなものです。
- 製造業:材料費や加工時間から見積金額を出す計算シート
- 建設業:現場ごとの原価と粗利を管理する表
- 卸売業:得意先ごとの掛け率や特別価格をまとめた表
- クリーニング業:店舗別の売上や外注費を集計する表
こうしたファイルには、長年の経験から導き出した計算ルールが詰まっていることが多く、会社にとっては重要なノウハウそのものです。一方で、セルの中の計算式やマクロ(Excelの操作を自動化する仕組み)が複雑になり、作った本人以外には意味が分からない状態になりがちです。
まず「何に使っているか」を言葉にしてもらう
中身の解析より先に、社長に次の3点を話してもらい、メモに残すことから始めます。
- このファイルを何のために、いつ(毎日・毎月・見積のたびに)使っているか
- どこから数字を持ってきて、何を入力しているか
- 結果をどう判断に使っているか(例:粗利率が一定を下回ったら値上げ交渉する)
この「業務の説明」があれば、計算式の中身は後から専門家が読み解くことができます。逆に、ファイルだけが残って使い方が分からないと、作り直すにも何を目指せばよいか分からなくなります。
社長のパソコンのデスクトップや個人のクラウドストレージにだけ保存されているファイルは、パソコンの故障や退任時の整理で失われることがあります。棚卸しの段階で、会社の共有フォルダにコピーを置くことだけでも先に済ませておきましょう。
棚卸しの進め方とスケジュールの目安
ITの棚卸しは、承継直前に一気にやろうとすると漏れが出ます。社長交代の時期が見えてきた段階で、少しずつ進めるのが現実的です。一般的な目安としては、次のような流れが考えられます。
| 時期の目安 | やること |
|---|---|
| 承継の1年〜半年前 | アカウント・契約・ライセンス・保守業者・社長専用のExcelを一覧にする。現社長へのヒアリングを数回に分けて行う |
| 半年〜3か月前 | 名義・連絡先・支払い方法を法人や会社の共通アドレスへ切り替える。後継者を管理者として追加する。重要なExcelの使い方を記録する |
| 3か月前〜交代時 | 後継者が実際にログインし、更新作業や月次処理を一度やってみる。代表者変更に伴う手続きを確認する |
| 交代後 | 旧社長の個人アカウントや端末に残る権限を整理する。一覧表を年1回見直す |
役割分担のコツ
一覧表を作る作業は、総務・経理の担当者や後継者が担い、現社長には「聞かれたことに答える時間」を確保してもらう形が進めやすいでしょう。1回あたり1時間程度のヒアリングを数回に分け、「今日はメールと会計」「次回はホームページと業者」というようにテーマを絞ると、社長の負担も小さく済みます。
また、一覧表は作って終わりではありません。新しいサービスを契約したり業者が変わったりするたびに更新する担当者を決めておくと、次の世代への承継や担当者の退職にも同じ表が使えます。
棚卸しをしてみると、「サポートが切れた古いシステムが残っている」「保守業者が一人体制で先行きが不安」といった課題が見つかることがあります。すぐにすべてを解決する必要はありません。課題を一覧に書き出し、優先順位をつけて後継者に引き継ぐこと自体が、承継準備として十分に価値があります。
まとめ
- 事業承継で困りやすいのは、社長の頭の中にしかないIT情報。棚卸しは「社長の記憶を会社の記録に移す作業」です
- アカウントはパスワードだけでなく、二段階認証の登録先まで確認して引き継ぎます
- ドメイン・サーバー・クラウドサービスは、名義・連絡先・支払い方法を法人側へ切り替えておきます
- ライセンスとサポート期限、保守業者との契約内容を一覧にし、口約束の関係は書面で確認します
- 社長専用のExcelは、まず「何に使っているか」を言葉で残し、共有フォルダにコピーを置きます
- 承継の1年〜半年前から少しずつ進め、交代前に後継者が実際に操作してみるのが安心です
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